私はグリッド状の単純な形態をアクリル絵具で何層にも重ねて描くことで生じる微妙なズレによって、人間の制御できる領域を越えた美しさを絵画上に表出させることができると考えています。
また、そのグリッド状の絵画に柔らかな錯視効果をつくりだし、目の前に広がる世界を完全に把握することはできないという事実を、鑑賞者の方々と感覚として共有することを目指しています。
(aya kawato 「statement」)
グリッドに加えられた「ズレやゆらぎ」の意義
「制御とズレ」をテーマに、グリッド・ペインティングによる独自の表現を追求する川人綾。
米国のポスト・モダニズムを代表する美術評論家のRosalind E. Krauss(ロザリンド・E・クラウス『視覚的無意識』)によれば、グリッドは「近代の美的生産の全体のなかで、これほど執拗に持ちこたえ、と同時に変化を受けつけなかった形態は、他にはなかったと言って差し支えないだろう。」とも言われる。
そのようなグリッドを、川人は手作業でわずかな「ズレやゆがみ」を加えて新たな地平線を切り拓いている。
ART PREVIEW TOKYOでは、川人のグリッド・ペインティングの背景と展開を追ってみた。
脳神経科学×染織:ハイブリットなコンセプト
神経科学者の父の影響を受け、脳を通して世界を把握しているということを、幼い頃から強く意識したという川人。特に、視覚情報を脳が処理する過程で生じる「錯視効果」に興味を抱いたとのこと。美術においても「錯視効果」のあるOp Art(オプ・アート)に着目し、高校時代に、Op Artの先駆者として有名なVictor Vasarely(ヴィクトル・ヴァザルリ)に関心を寄せたという。
奈良に生まれ育った川人は、大学時代は京都で日本の伝統的な染織を学んだ。
「日本の伝統的な染織においては、熟練した職人の緻密な手作業であっても、最終的に微妙なズレが生じます。手作業の積み重ねが生み出すそのズレは、人間の制御できる領域を越えた美しさを持っています。」(川人web)
川人は(手仕事から生じる制御できない)「ズレ」に美を見出す。
東京藝術大学の大学院で、「ズレ」による美を深化させ、大島紬の「ズレ」と、脳科学における視覚と認知のずれがもたらす錯覚効果などの「ズレ」のハイブリットな考察から、「制御とズレ」というテーマに昇華させている。
Ori(織り)のプロトタイプ誕生
大学院時代の制作研究の集大成は、「織合い」(2017年COMITÉ COLBERTと東京藝術大学との共催で行われたプロジェクト「2074、夢の世界」展にて、優秀作品として選出。その後、FIAC(パリで開催されたアート・フェア)で展示)と、「制御とズレ ―大島紬における「制御とズレ」の構造研究を通して―」(2018年の東京藝術大学大学院博士課程の卒業制作作品)の2作品。
川人の織りと錯視効果から成る「制御とズレ」のプロトタイプの誕生である。
織(Ori)からScopicへ
「織(Ori)Scopic」展(imura art gallery(京都)2021年)では、水平と垂直のグリッドに斜め45度のグリッドを重ね合わせた作品を発表。
絵画を展示するだけではなく、壁面やファサードのガラス面にもグリッドペインティングを施した。この展示方法は、前年2020年にFacebookの東京オフィスに設置した作品がもとになっている。
(注)Scopic:遠距離、中距離、近距離から見ることで作品が移り変わり、角度によっても変化するイメージ
インスタレーションへ
この斜めのグリッドの世界は、空間全体を使用したインスタレーションへと挑戦を続ける。
京都市京セラ美術館で開催された展覧会「川人綾:斜めの領域 | 京都市京セラ美術館 ザ・トライアングル」(2022年)では、ガラスの空間全体に手描きとデジタル・プリントによる、質感を異にしたグリッドが広がる。
東山からの光を受けて、まばゆいばかりのゆらぎの色彩は、見る者の心にどのようなイメージをもたらしたのであろうか。
さらなる、建築的インスタレーションへ
2023年、それまでの平面的なインスタレーションから、建築的な体験となる展覧会「project N 89 川人綾」(東京オペラシティ アートギャラリー)が開催された。
高さ3m弱、横幅の総延長が50m近いコの字型の壁面全体に、デジタル出力を施した塩ビシートを貼り込み、その上に990枚の正方形の木製パネルを何カ所かに集中してグリッド状に配した、壮大な規模のインスタレーションだ。
全体としてはデジタリスティックだけれども、遠くから見ると同化して、近くで見るとズレがはっきり見える。
川人は、「見る距離や角度によって、見る側の意識の持ちようによって、そのつど、ズレや揺らぎと豊かな多義性をもって立ち現れてくる。(川人は、)体験の豊かさを他者と共有すること」(東京オペラシティー アートギャラリー 「川人綾 絵画的想像力と「没入感」」)を願ってやまないと語る。
これまでのOp Artの作品が一義的で強い視覚的効果を見る者に一方的に伝達していたのに対し、錯視効果によるズレや揺らぎを体感できるなど、すでに一線を画していた川人の作品は、建築的なインスタレーションへの広がりにより、その鑑賞体験を新たな領域へと拡げていったといえる。
ゆらぎの新たな可能性とは
2025年開催の大阪・関西万博の迎賓館に向け、川島織物セルコンによる綴織タピストリーのデザインと制作監修を現在行っている川人。その綴織の豊かな色彩からインスピレーションを受け、2024年に、グリッド・ペインティング「綴るみなも」(imura art gallery 2024年)を発表。
錯視効果を狙ったグラデーションの配列の考案に3か月以上費やしたという新作は、長方形のブロック単位のグリッドに1800色もの膨大な色彩を配した意欲的な作品だ。ビビッドな色彩が連なりグラデーションとなって現れるゆらぎと、立体感により生じるゆらぎが重なり合って、「みなも」のような、ゆったりとした、たおやかなイリュージョンがあらわれる。
Eye from ART PREVIEW TOKYO
川人のグリッド・ペインティングが生まれた過程が興味深い。
「グラフィックデザインの経験をしてみると、本当に細かい表現をmacやイラストレーターで追求できてしまうことが面白くないように思えてしまいました。逆に、できる限り制御したうえで生じてしまう染織の滲みや歪みに、本当は惹かれていたのだということに気づかされたんです。
ただ、なんとなく染織をそのまま続けるのは違う、自分には自由が足りないという気がしていたので、東京藝大の先端芸術表現科の修士課程に入って試行錯誤し、博士課程の途中でグリッドペインティングを描き始めました。布を制作するよりもこの手法で見せるほうが、自分が染織から感じている美しさをシンプルに伝えられるのではないかと思って、絵画という手法を選ぶようになりました。」(美術手帖「絣から感じるズレの美しさを、視覚を惑わすグリッドペインティングに表現。川人綾インタビュー」)
批判的で無機質な作品が多いように思われるグリッド・ペインティング。グリッドの「制御」に揺らぎを加えた川人のグリッドには、包み込むような、やわらかさが溢れている。その「ズレやゆらぎ」がもたらす自由。その効果として、鑑賞者の心が自然と開かれていく。 「体験の豊かさを他者と共有すること」川人が作品に込めた思いが、伝搬していくことを願ってやまない。
ARTIST Info
川人 綾
1988年 奈良県生まれ 京都府在住
2019年 東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現博士後期課程修了
主な展覧会
● 2024年 「綴るみなも」イムラアートギャラリー(京都)
● 2023年 「project N 89 川人綾」東京オペラシティアートギャラリー(東京)
● 2022年 「川人綾:斜めの領域」京都市京セラ美術館ザ・トライアングル(京都)
● 2020年 「Tell Me What You See」Pierre-Yves Caër Gallery(パリ、フランス)
OVERVIEW | Aya Kawato | imura art gallery