熊谷亜莉沙「天国泥棒」
熊谷亜莉沙による個展「天国泥棒」がギャラリー小柳(東京都、銀座)で開催。(2025年10月11日まで)
本個展のタイトル「天国泥棒」は、主にキリスト教において、罪を犯した人物が死の間際に救いを求め、洗礼を受けることを指す言葉として使われる。
「天国の門は誰にでも開かれている」とされるが、長く神に仕えてきた者にとっては、死の直前に都合よく救いを求める姿に「ずるい」「卑怯だ」と感じてしまうこともある。熊谷は、そうしたどうしようもなく人間らしい感情に、自身の「心のありよう」を重ね合わせているといい、展覧会のタイトルとした。
熊谷は1991年大阪生まれ。主に油彩を用いて作品を制作。京都芸術大学卒業制作展優秀賞、浅田彰賞をはじめ、上野の森美術館賞、シェル美術賞受賞など、数々の賞を受賞している若き逸材。
熊谷の作品には、複雑な家庭に育った自身の生い立ちが色濃く反映されている。
自身の生い立ちや家族史を起点としつつ、それを超えて、普遍性のある、富裕と貧困、生と死、愛と憎しみなどのテーマを問う作品へと昇華させる。
熊谷には「Leisure class」, 「Single bed」, 「ブーケ(花束)」など、2017年のデビュー以来描き続けているテーマやモチーフが幾つかあり、4回目となる本個展でも、それらを軸とする新作を出展。
天国泥棒の主軸となる作品:《It’s OK, It’s OK, It’s OK》2025
小さなスニーカーと花瓶に添えられた花を組み合わせたトリプティック(三連画)の絵画で、本展の「天国泥棒」の主軸となる作品。

その履き古された子ども靴は、かつて自分の子どもに暴力を振るい、家族と疎遠になったまま孤独死を遂げた男が、その子に買い与えたもの。
タイトルの「Itʼs OK(大丈夫だよ)」というフレーズは、一見優しげに聞こえる。しかし、矢継ぎ早に3回繰り返すことで、いまなお後を絶たない児童虐待の問題への怒りを表す。
「毎日スマートフォンを開くと、日本でも海外でも、子供の虐待のニュースを目にし、自分のことのように感じて、耐えられない気持ちになる。」という熊谷。
「私は作品にしないと前に進めないというのがあるので、どうしても、それを作品にしたいと思った。」と続ける。
中央には花瓶にいけられた花束。花束は誰かのために束ねられたもの。
「私は、誰かにこの花束を贈りたい、捧げたいという気持ち、そこに祈りがあると思う。」と語る熊谷。

トリプティックな作品の構図について、次のように説明する。
「聖母マリアの祭壇を描いて、ロザリオだけがキラッと光っていて。その左右に配置されている2枚の絵画は、子供のシューズ。私がずっと描き続けているモチーフです。私の子供時代に父が買い与えてくれた靴を、母が保管してくれていた。ほんの少し靴が中央のマリア像に傾いている構図になっていて、心を寄せたいという気持ちを込めている。」
世界のどこかで今、痛みや苦しみを抱えている子どもたちが守られるようにと、熊谷の祈りが込められているトリプティックな作品は、同時に、子供たちを救うことのできない現代社会の構造上の問題に疑問を投げかける。
2連画の構図に込めた作家の意図:《Say yes to me》 2025
シングルベッドサイズのキャンバスに描かれたディプティック(二連画)。
熊谷の重要なテーマ、「Leissure class」シリーズのレイヤーと、「Single bed」シリーズのレイヤーが重なる、意欲的な作品。

注目すべきは、その構図。きらびやかな「ヴェルサーチ」のシャツを着た老人の丸まった背中のシャツに描かれている猟銃の銃口が、もう一枚の絵画の子鹿に向けられている。


銃で撃たれ、川に晒された子鹿。
「鹿」は、古より、世界中の様々な祈りの場において信仰の対象であると同時に畏れの対象でもあり、矛盾を孕む存在。鹿は、10年前に鹿狩りに同行した頃から温めていたモチーフだと、熊谷はいう。
「一見これは捕食する側と捕食された側っていう、すごい強い力関係があるように見える絵画ですが、私はプリミティブなもの、自然が持つ強さみたいなものには、人間が真に打ち勝つことはできないのではないかと思う。」と語る熊谷。
「でも人間には人間の傲慢さがあって、自然に介入していく。その傲慢さは強さであり、同時に弱さでもある。」
「プリミティブなものが持つ、美しさと恐ろしさ」に対する畏怖の念から生まれた作品。
そのほかにも「火」や「イカロス像」をモチーフにした大作や小品など新作絵画全6点と、ドローイング10点が展示されている。

今後の展望:「Single bed」の新たなる展開を
描きたいテーマはたくさんあるという熊谷。だが、主軸となるのは「今まで継続して描いてきたモチーフ」と語る。
「Leissure class」のヴェルサーチのシャツをまとう男、「子供のシューズ」、「ブーケ(花束)」などを継続してモチーフとして制作活動を続ける熊谷。だが、やはり中核を占めるのは「Single bed」。
「メメントモリ(memento mori)」を孕んでいるシングルベッドのサイズのキャンバスで「Single bed」シリーズを描きたい。
いろいろな人に取材をして、叶うことならそれらの人の感情をもとにして、シングルベッドのサイズの作品を制作して個展をしたい。」と語る。

熊谷の作品について、
「生きる営みを支える、暴力も含めた力の連鎖。芸術を生み出す力もまたその連なりの中にあり、そこにささやかな救いの可能性もあることを、彼女は自らを媒介として私たちに示してくれる。」
と藪前知子(キュレーター、東京都現代美術館学芸員、シェル美術賞に熊谷を推薦)は評する。
(藪前知子「痛みと赦しのはざまにー熊谷亜莉沙の絵画」『熊谷亜莉沙|白無垢/ White Witch』2025)
「私は作品にしないと前に進めない」という熊谷。
本個展「天国泥棒」の作品群を前にして、個人的な背景を乗り越えた普遍的な作品へと昇華させている先達女性アーティストの名が思い浮かんだ。
自分自身と対峙し、自分の感情を「描く」ということで表現し、他者と共有する熊谷。
自分の人生を起点として普遍的なテーマに取り組み、大きく羽ばたいて欲しい。
OVERVIEW
Arisa Kumagai “Heaven Stolen”
Gallery Koyanagi | 2025.8.23 – 10.11